休日グルメ、ハラミのビーフステーキの話
この味はいつまでもあり続けてほしい🥩🍴🍲🍚
この味はいつまでもあり続けてほしい🥩🍴🍲🍚
休日の昼、僕は倉敷にある洋食レストランに足を運んだ。もう何年も通い続けている、落ち着いた雰囲気の店だ。
店内は木目のフローリングに、オレンジとピンクを基調としたベンチシート、そして整然と並んだ椅子たち。
壁にはカトラリーを模したパネルアートが飾られ、やわらかな間接照明が空間をほんのり温めている。
コロナの名残なのか、長テーブルにはアクリルパーテーションが立てられていて、今ではもう気にならない程度に、そこにある。
この店には、はじめて来た時から何か静かな秩序があって、休日の僕にとってはちょっとした避難所のような場所だ。
注文するのは決まっている。ハラミのビーフステーキセット。
皿の上に乗って出てくる、香ばしく焼かれたハラミ。鉄板ではない。あくまで白い陶器の皿に、美しく収まってやってくる。
スープは、カップではなく浅めの白いスープ皿に盛られていて、銀色のスプーンで静かに飲む。
ほんのり甘みのあるコーンスープは、体の中の歯車をゆっくりと回しはじめるスターターだ。
スープを飲み干したあとは、ステーキ、サラダ、ライスを三位一体のバランスで食べる。これが僕のスタイルだ。
サラダばかり先に食べてしまったり、ライスを残してしまったりすると、世界の秩序がどこか歪む気がして落ち着かない。
それくらい、このステーキには「流れ」がある。
ハラミ肉は、ほどよく赤身で、食感に芯がある。でも硬すぎない。
その上にかかっているのが、醤油ベースの甘辛いソース。これが絶妙なんだ。
ひとくち肉を口に運び、その余韻のまま白ごはんをかきこむと、
——うん、と自然にうなってしまう。
肉とご飯が、ただ「合う」んじゃない。引き寄せ合っているのだ。磁石のように。
ふと思った。
この肉のもとになった牛は、何を食べて育ったのか。
答えは——草だ。しかも、雑草みたいなものだ。
そう考えると、これは立派な錬金術じゃないか。
雑草という、どう考えても人間の栄養にはなりえない素材を、牛はその体の中で栄養価の高い赤身肉に変換する。
それを支えているのが、4つの胃と数兆の微生物たちだ。
第一胃のルーメンでは、バクテリアや原生動物が、草を発酵させ、セルロースを分解して、揮発性脂肪酸に変える。
彼らは黙々と働く、草の錬金術師たちだ。
草が脂肪になり、筋肉になり、こうして今、僕の皿の上に乗っている。
僕たち人間は、ヤギや牛のように、草を直接エネルギーに変えることはできない。
でも代わりに、火を使い、鍋を使い、微生物の力を借りて、食物を変性させる技術を発明した。
それに、こうして醤油とみりんを合わせて作るソースだって、十分錬金術的だと思う。
誰かがどこかで、何かと何かを混ぜ合わせて、ただの肉を「ご飯が止まらない肉」に変えたのだ。
皿の上がきれいに片づき、僕は水を一口飲みながら「ごちそうさま」とつぶやく。
それはただの礼儀じゃない。草から始まった命の変換作業に、ひとつの句読点を打つ儀式のようなものだ。
自然は、何も語らず、淡々と循環を続けている。
草が育ち、それを食べる生き物がいて、その命が僕たちの命になる。
その一連の流れの中に、自分もまた組み込まれているのだと思うと、
少しだけ、心が静かになる。
家に帰ったら、絵を描こうかなと思う。
今日は牛にしよう。ステーキではなく、草をもぐもぐ食べている、生きた牛。
ルーメンを携えた、小さな生体錬金術師たちの肖像画だ。
僕たちは、いつも何かを食べて生きている。
それは、草の変奏曲かもしれないし、命のバトンリレーかもしれない。
そして今、冷蔵庫にはトマトジュースが1本残っている。
冷えたトマトジュースを、風呂上がりに飲み干して、就寝するという流れが、休日の至福のルーティンとなっている。
世界のしくみは複雑だけど、とりあえず今日はそれでうまく回っている。
牛もたぶん、どこかで草を食べている。