僕たちは皆、文化の編纂者である
過言ではないかなと思います 📑
過言ではないかなと思います 📑
ある日、ふと思った。
Web/UIデザインは、ある種のインタラクティブな絵画なのではないか?
そんなことを考えると、なんだか少しワクワクしてきた。
「いやいや、それは違うでしょう」と言う人もいるかもしれない。
「絵画は静的なものだし、Webデザインはユーザーが操作するものだ」と。
確かに、形式としては異なる。でも、本質的な部分を見てみると、驚くほど共通点がある。
たとえば、絵画もWeb/UIデザインも、鑑賞者の体験を設計するものだ。
絵画なら、キャンバスの上の構図、色彩、光の扱いが、見る人の感情や印象を左右する。
Web/UIデザインなら、レイアウト、フォント、動線設計が、ユーザーの行動や理解度に影響を与える。
それに、どちらも「見る環境」によって大きく変化する。
たとえば、美術館で観るゴッホの『ひまわり』と、ポストカードの印刷で観るそれは、まるで別の作品にすら思える。
美術館では、筆跡の凹凸や微妙な色の変化が感じ取れるが、ポストカードではすべてがフラットになり、印象が変わってしまう。
さらに、絵画は作るだけでは、作家の意図が適切に伝わるとは限らない。
後述するが、体験設計が重要なのである。
個展会場や美術館における設置方法や、設置される空間設計により伝わり方が大きく異なる可能性が高いと言える。
同じように、Webデザインも、PCで見るのとスマホで見るのとでは、まったく異なる体験になる。
たとえば——
更に、開いた時の状況や、ユーザーが立たされている立場、ユーザー個人の属性に応じても、適切なUIを提供しなければならない。
たとえば——
つまり、Webデザインも絵画も、「環境」と「鑑賞者」によって変化する体験を設計する行為だ。
ここで、ある種の反論が出てくるかもしれない。
「Webデザインは創作ではなく、ただの情報配置では?」と。
けれど、それは少し視野が狭い考え方かもしれない。
たとえば、美術館のキュレーターは、ただ作品を並べるだけの仕事ではない。
彼らは作品を選び、展示方法を考え、解説を作り、訪れた人がより深く作品を理解できるようにする。
ある絵をどの高さに配置するか、隣にどの作品を並べるか、どんな照明を当てるか——そのすべてが体験設計だ。
画家にとっても、このキュレーター的な視点を持って作品を創作することは重要であると言える。
これは決して「ただの紹介」ではない。
それは、作品をどう見せるか、どう体験させるかをデザインする、立派な創作的行為だ。
更に言い換えるならば、文化というのは作る人だけではなく、記録し、伝え、編纂する人たちによって支えられている。
たとえば、音楽なら——
作曲家がメロディを生み、演奏家がそれを届け、プロデューサーが作品の形を整え、批評家がその価値を言語化し、研究者が歴史の中に位置づける。
文学なら——
作家が物語を書き、編集者が整理し、書評家が評価し、読者が受け取ることで文化が循環する。
そして美術もまた同じだ。
ゴッホやルノワールの作品が今も名を残すのは、彼ら自身の作品が素晴らしいことも要因だが、それだけではない。
作品を記録し、広め、評価し、研究した人々がいたからこそ、今日の僕たちは彼らの絵を見ることができる。
Web/UIデザインにも同じことが言える。
情報をどう配置し、どう見せ、どう伝えるか。それを考えること自体が、ひとつの「創造」なのだと。
つまり、Webデザインとは、単なる情報の整理ではなく、ユーザーの体験をデザインする芸術に近いものなのであると言えるのではないか。
Webデザインを通じて美を作る人もいれば、
絵を描くことで美を表現する人もいる。
美術史を編纂し、過去の美を未来に伝える人もいる。
どれもが重要で、どれもが独自の価値を持つ。
大事なのは、「どう関わるか」だ。
Webデザインも、絵画も、音楽も、美術史の発信も、すべては「人々に体験を届ける」行為であり、
その手段が異なるだけだ。
だからこそ、自分が楽しいと思える方法で、文化に関わればいい。
作るのもいいし、伝えるのもいいし、編纂するのもいい。
どんな形であれ、美に関わるということ自体が、すでに価値のあることなのだと思う。