UIデザインはどこへ向かうのか ——
AI時代に残る「人間の手触り」について
AI時代に残る「人間の手触り」について
ある日ふと思い出した、Appleの創始者・スティーブ・ジョブズの話から始めよう。
ジョブズは1984年の初代 Macintosh を作った時
「PCのモニタにも、印刷物のような美しいフォントが必要なんだ。」と言ったらしい。
コンピュータの未来は、機能性ではなく「美」によって引っ張られる、とも。
つまり、“まだPCの表現力が貧弱だった時代に、美しさをOSの中核に入れる” という、まさに先見の明のある決断でした。
当時のPCはテキストもGUIも粗く、「美しい書体?そんなの要らない。どうせ仕事用マシンだし」
という空気が主流だった時代。
だからこそジョブズの思想は異端で、そして革命だったそうだ。
ぼくはその話をどこかで聞いて、コーヒーを飲みながら「そうだよな」と思った。
ただ数字を並べた四角い箱に人生の大半を預けているわけだから、そこに少しくらい芸術が宿ってもバチは当たらない。
むしろ、芸術のかけらもない画面ばかり見ていたら、人間の感性というものはカサカサに乾いてしまう。
乾いた感性で良いデザインを作るのは、乾いたスポンジでテーブルを拭くようなものだ。
あまりうまくいかない。
ジョブスはスタンフォード大学のスピーチで、こんなことを語った。
「Macが美しいフォントを持てたのは、私が大学でカリグラフィを学んだからだ。」
つまり彼は、テクノロジーに芸術性を持ち込むべきだと言いたかったのだと思う。
コンピュータはただの機械ではない。
人の感情や美意識に触れる「体験」そのものだ、と。
そしてこれは、現代のUIデザインにもそのまま接続している。
UIデザインの世界には、こんな言葉があります。
これは確かに道具(Tool)としての正義です。
ユーザーは目的を最短距離で達成したいだけで、UIに感情を揺さぶられたいわけではありません。
道具には道具の美学がある。それは間違いない。
でも、世界のすべてのUIが“道具”なのかと言われると、どうもそうではない。
映画館で観る映像には、家庭のテレビでは出せない“空気”があります。
ラグジュアリーブランドのサイトには、商品説明以上の“佇まい”があります。
そして、美術館や展覧会などのブランディングサイトには、
「ユーザーが空間に滞在すること自体が価値」という世界が存在している。
ここではUIは、
インテリアのように空間の雰囲気をつくるもの インテリアコーディネーター
になる。
美術館の照明や壁紙が、空気のように透明である必要はない。
むしろ作品の格を高めるために、
静謐さ、重厚さ、陰影、温度――そういった“演出としてのUI”が求められる。
ゲームの世界では、この「UIは作品の一部」という認識がかなり前から常識になっている。
これらのUIは、透明でもなければ、空気でもない。
むしろ強烈に主張し、見る者の感情を揺さぶってくる。
ゲーム世界の骨格になっているとも言える。
AIが生成する無機質な平均解とは、まるで違う世界だ。
ある人がこんなことを言っていた。
「AIは平均的なデザインしか出せない」
これは的を射ている。
AIが作るUIはどうしても“統計的に最適化された中庸のデザイン”になりやすい。
これは、アルゴリズムでは再現できない。
人間の身体性や経験、記憶が生む“手触り”そのものだ。
だからこそ、AIが生成する「空気のUI」が大量生産される時代には、
“手触りのあるUI”を作れるデザイナーが、むしろ価値になる。
まとめると、UIには大きく2種類ある。
どちらも正義で、どちらも必要。
大切なのは、自分が作ろうとしているものがどちらの領域に属するかを理解することだ。
UIは場合によっては、ただの“操作パネル”ではなく、
思想を持った空間そのものだと思う。
そのUIは、おそらく透明ではない。
けれど、だからこそ“あなたらしい”。
AIがコピーできない、
あなたの目と手と心の蓄積そのものが形になる。
それはきっと、誰かの心の奥に静かに落ちる。
UIというのは、結局のところ、
人の指先と心をそっとつなぐ媒介みたいなものなんだと思う。
あるときは空気のように透明で、
またあるときは静かに色を帯びて、
世界の輪郭を照らしたりもする。
どちらが正しい、なんて話じゃない。
ただ、人間にはどちらのUIも必要で、
AIにはまだ作れない“温度”がある。