「才能」というものについて、アトリエで考えたこと
これを勘違いすると悲惨です😅
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日曜の昼下がり、アトリエの窓を開けた。湿った空気が外へ流れ、代わりに乾いた風が入り込む。筆を置き、冷えた麦茶をひと口飲む。静物画はまだ未完成。形は悪くないが、もう少し影を深く、光を際立たせるべきか──そんなことを考えながら、ふと「才能」という言葉について思いを巡らせた。
「天才」とは何だろう?
世間では、偉大な画家たちに対して「天才」という言葉が簡単に使われる。確かに、ピカソもダ・ヴィンチも圧倒的な実績を残したし、彼らの作品には目を見張るものがある。でも、それを単純に「生まれつきの天才だから」と片付けるのは、少し安易かも知れないと考えた。
彼らの名が語り継がれるのは、ただ才能があったからではない。試行錯誤し、失敗し、それでも描き続けたからだ。ピカソがたどり着いた表現の変遷を見れば、彼が決して一つのスタイルに安住しなかったことがわかるし、ダ・ヴィンチの膨大な素描には、ひたすら探求を繰り返す執念が刻まれている。彼らに「天才」という言葉を使うとすれば、それは生まれ持った何かではなく、熱を失わずに追い求め続けたことに対する賛辞であるべきだ。
少なくとも自分はその意味で過去の巨匠たちを「天才」という言葉で称賛している。
才能というものを「天から与えられたもの」と考えるのは、どうにも性に合わない。もちろん、生まれつきの素質はあるだろう。だが、それだけで何かを成し遂げられるほど、創作の世界は甘くない。良い作品を生み出すためには、ただひたすらに描き続けるしかない。そして、それを続けられることこそが、真の才能ではないかと思う。
実際、僕はそれなりに描ける自負がある。少なくとも、道半ばで筆を折るような人間ではない。だが、それは「自分には生まれ持った才能がある」と思っているからではない、ましてや「天才」などとは微塵も思っていない。そんな言葉に振り回されるのは御免だとすらも思っている。ではなぜか?それは「描くことをやめられない」からだ。
重要なのは、熱を失わないことだ。他人と比べて優れているかどうかに関係なく、それでも描き続けてしまう。結果がどうあれ、手を動かし、目を凝らし、筆を進める。その積み重ねだけが、最終的に差を生むのだと思う。
もちろん、競い合うことを否定するつもりはない。むしろ、優れた作品を見れば、悔しいと思うこともあるし、もっと上手くなりたいと思う。だが、他者との比較に囚われすぎると、肝心なものを見失ってしまう。自分の根源にあるもの、もっと純度の高いものに向き合うことが、本当の意味での「描く才能」なのではないか。
麦茶の氷が溶けかけている。ぬるくなったそれを飲み干し、僕はもう一度筆を取る。光が足りない。影をもう少し深く。形を際立たせる。その繰り返しが、大事なのだと思う。