芸術の本質について
ある雨の日に☔️
ある雨の日に☔️
日曜日。朝から雨が降っている。
僕は窓辺に立ち、静かに降り続ける雨を眺める。世界が灰色に染まり、どこか遠くのラジオが小さく鳴っている。
こんな日は、どうにも絵を描く気になれない。
キャンバスを前にしても、筆を持つ手が動かない。もちろん、無理に描くこともできるけれど、気持ちが乗らない時の線は、どこかぎこちなく、何かが欠けてしまう。だから僕は、ただ横になり、考えごとをする。
例えば、「芸術とは何か?」ということについて。
もし誰かに「芸術とは?」と尋ねられたら、多くの人は「美しいもの」「感動を与えるもの」と答えるだろう。でも、それは芸術の表面的な一側面でしかない。
本当の芸術の本質とは、「価値観を揺さぶるもの」だ。言い換えれば、「常識を覆すもの」。
例えば、ダ・ヴィンチやモネ、ピカソの作品がなぜ時代を超えて評価されるのか。それは、彼らがその時代の”当たり前”を打ち破ったからだ。
彼らは、新しい視点を提示し、世界の見え方そのものを変えた。だからこそ、時代を超えて語り継がれている。
では、そんな芸術が実生活で役に立つのか?という疑問が生まれる。
結論から言えば、芸術は直接的な実用性を持たない。
芸術が生活を便利にするわけではないし、絵を描くことでお腹が満たされるわけでもない。
もし芸術が実用的な側面を持ったなら、それは「デザイン」や「建築」として形を変えてしまうだろう。
例えば、美術館に飾られた壺は芸術品だ。でも、それを家に持ち帰り花を生けた途端、ただの実用品になる。
逆に、お皿に描かれた花模様も、使わずに飾れば芸術と呼ばれる。
芸術とは、実用性とは異なる場所に存在するものなのだ。
では、実用的ではないものに価値はあるのか?と問われると、僕は「ある」と答える。それも、人生をより豊かにする意味で、大いにあるのだ。
目の前に「コーヒー」があるとする。
通常の考え方なら、
といった認識で終わるだろう。
でも、芸術的な視点を持っていれば、
こうやって、ただのコーヒー一杯にさえ、無数の可能性が広がる。
物事を決めつけずに、多角的に見ること。
それは、常識にとらわれないクリエイティブな思考を生み、新しいアイデアを生むための「柔軟な脳」を育てる。
芸術に触れることは、人生のあらゆる場面で、こうした「発想の幅」を広げるきっかけになる。
世の中はどうだろう?
今の社会では、「効率」や「合理性」が最優先される。
何かを学ぶなら、それがどれだけ役に立つのかを求められ、何かをするなら、最短ルートを探すのが当たり前になっている。
このように、効率や合理性を助けるための「実用性」が重視されるといえる。
キャリアプランも、自己啓発も、まるで「誰かが用意したロードマップ」をなぞるように進められている。
「成功するための法則」「人生を変える習慣」そんな言葉が溢れ、皆が同じような道を歩こうとしている。
でも、ちょっと待ってほしい。
それは、本当に「自分の人生」なのだろうか?
効率的に進むことばかりを考えた結果、気がつけば、誰かが作ったテンプレート通りの人生になってはいないだろうか?
芸術は、その流れに「待った」をかける。
芸術に触れる時間は、目的のための手段ではなく、それ自体が目的になる時間だ。
美術館で絵を眺める時間、音楽を聴いて心を委ねる時間、小説を読んで別の世界に没入する時間。
それらはすべて、「自分と向き合うための時間」だ。
他人の成功法則に流されず、社会の基準に振り回されず、「自分は何が好きで、何を大切にしたいのか」を見つめ直す機会になる。
誰かが作った「理想の生き方」に乗っかるのは簡単だ。
でも、芸術に触れる時間は、そうした「外の基準」ではなく、「内なる自分」と対話する時間を与えてくれる。
何を美しいと感じるか。
何に心が震えるか。
何を大切にして生きたいのか。
そうした問いと向き合うことは、人生の方向を決める上で、何より大切なことなのかもしれない。
芸術はそんな機会を与えてくれるものであると言える。
雨はまだ降り続いている。
僕は布団の中で、何もしないまま考えごとを続ける。
今日は絵を描かなかった。でも、それでいいのかもしれない。
芸術は、描くことだけじゃない。考えること、感じること、それ自体がもう芸術なのだ。
そして、そんな「役に立たない時間」こそが、人生にとって本当に意味のある時間なのかもしれない。