「言葉」の語源 🍃
古の人びとは、想いを「言」として表し、それが「葉」のように枝分かれして広がっていくさまを「言の葉」と呼んだ。風にそよぐ木の葉のように、私たちの心も、言葉にのって誰かのもとへ運ばれていく。
古の人びとは、想いを「言」として表し、それが「葉」のように枝分かれして広がっていくさまを「言の葉」と呼んだ。風にそよぐ木の葉のように、私たちの心も、言葉にのって誰かのもとへ運ばれていく。
四月のある午後、ぼくはキーボードの上に手を置いたまま、
なぜ自分のサイトのヘッダーに葉っぱの写真を選んだのか、その理由を言語化してみようと思った。
あらためて考えながら、ひとつずつ思いを整理していく。
まずひとつは、「自然調和(ナチュラルハーモニー)」というこのサイトのテーマから。
デザインを考えるにあたって、いちばんしっくりきたのが、深緑をまとった植物のイメージだった。
その象徴が、新芽をたたえた葉っぱ。選ぶのに迷いはなかった。
それに、自然の中を散策することは、ぼくにとって日常の習慣でもある。
だから「葉っぱ」は、ただの装飾ではなく、自分にとって静かなシンボルでもあった。
でも、もうひとつ。もっと深くて、もっと個人的な理由がある。
言葉について考えるとき、ぼくの頭にはいつも「言の葉(ことのは)」という言い回しが浮かんでくる。
言の葉——なんて美しい響きなんだろう。
古い日本語では、「こと(言)」は思いや意志を、「は(葉)」はそれが姿を持って現れたものを意味する。
つまり、ぼくたちが日々交わしている言葉は、心という樹の枝からふと落ちた、一枚の葉っぱのようなものなのだ。
ぼくはそのイメージがとても好きだった。
だからこの写真を選んだ。それは単なる季節感や色彩の選択じゃなくて、ひとつの静かな声明(メッセージ)だったのだと思う。
最近、インドの「アガスティアの葉」にまつわる話を読んだ。
その伝承によれば、何千年も前の聖者が、ヤシの葉に人間ひとりひとりの人生を書き記したという。
名前も、生年月日も、職業も、未来さえも。
今もそれを「自分の葉」として探しに行く人が、インドには存在しているらしい。
不思議な話だと思った。
でも、それってつまり、「言葉が葉っぱに宿る」という点で、日本の「言の葉」とどこか響き合っている気がした。
地理も文化も言語も違うけれど、人間の深いところには、きっと何か共通する感性があるのだろう。
このサイトでは、ぼくが描いた絵と、書きためた言葉を並べている。
パステルと鉛筆と、少しのデジタルツール。
描くという行為は、言葉よりももっと深い層に触れる気がする。
でもだからこそ、ぼくは絵のそばに言葉を添えておきたかった。
それは葉っぱのそばに種子があるようなものだ。
あるいは、風に揺れる枝の根元に、ひっそりと水脈が流れているようなもの。
言葉は単なる道具かもしれないけれど、
ぼくはそれを、何かビジュアルなメタファで表現してみたかった。
言葉は風だ。葉っぱだ。
人の心から生まれて、誰かの心へふわりと届く。そんな存在だと思っている。
そんなふうに考えているから、ぼくはこのサイトに葉っぱの背景を選んだ。
「言の葉」という言葉の、静かだけれど確かな力を、信じているから。
もしよかったら、このサイトを見てくれているあなたも、何かの「葉」を拾っていってくれるとうれしい。
ひとつひとつの言葉や絵が、誰かの心のどこかにそっと舞い降りることを、ぼくは密かに願っている。
そうして、どこか見えない場所で、言葉と葉っぱがまためぐりあってくれるなら、それだけでもう十分だと思う。